葬儀社に勤めたことがあり、「無宗教葬」のお見送りに接する機会がありました。
僧侶である私は、そのたびに「弔い」とは何だろうと考えます。
手を合わせる先にあるもの
参列者は、亡くなった方に向かって静かに手を合わせます。
その姿は、とても自然で尊いものです。
「今までありがとう。」
「お世話になりました。」
「いい世界に行ってね。」
きっと、そんな思いを込めておられるのでしょう。
けれど、その手は誰に向かい、何を願っているのでしょうか。
宗教者である私は、「故人お一人に、その後の歩みを委ねてしまっているようにも見える」のです。
私は、「弔う」という営みそのものが、少しずつ暮らしの中で受け継がれなくなってきているのではないかと感じています。
途切れて初めて分かること
コロナ禍では、各地で祭りが中止になりました。
その間に祭りを支えてきた方が亡くなられたり、体調を崩されたりして、「もう祭りのやり方が分からない」という地域もありました。
伝統とは、言葉だけが残れば続くものではありません。
受け継ぐ人がいて、伝える人がいて、初めて未来へ残っていくものです。
弔いもまた、同じではないでしょうか。
「迷惑をかけたくない」という優しさ
終活のご相談を受けていると、「子どもに迷惑をかけたくない」という言葉を、本当によく耳にします。
その思いは、ご家族への深い愛情から生まれたものなのでしょう。
だからこそ、「法事はしなくていい」「お墓はいらない」「葬儀も簡単でいい」という選択につながることもあります。
もちろん、それぞれに事情があり、その選択を否定するものではありません。
ただ、その積み重ねによって、子どもや孫が法事や葬儀に参列する機会、お墓参りをする機会、手を合わせる機会は、少しずつ少なくなっているように感じます。
法事や葬儀が伝えてきたもの
法事や葬儀は、故人を偲ぶため「だけ」のものではありません。
- 亡くなった方をどう弔うのか
- 手を合わせるとは、どういうことなのか
- いのちは、どのようにつながってきたのか
そうしたことを、家族が自然に受け継いでいく場でもあります。
家族とともに手を合わせること。
お墓参りに出かけること。
法事に参列すること。
そんな一つひとつの積み重ねの中で、人は「弔い」を学び、次の世代へと伝えてきました。
結び
「普段」を「不断」に
だから私は、「フダン」という言葉を大切にしたいと思っています。
普段の暮らしの中で手を合わせること。
その「普段」の積み重ねが、絶えることのない「不断」の営みとなり、弔いを次の世代へと伝えていく。
伝承することとは、「普段」を「不断」に続けていくことなのではないでしょうか。